夢や目標に縛られず・・・
先日、小学校と中学校の先生たちが集まって、義務教育9年間を見通して、系統立てて計画的に力をつけていきましょう。みたいな話し合いがあった。確かに積み重ねでだんだんついていく力もあるかもしれないのだけど・・・私の考えていたことといったら・・・?
例えば、新卒のとき出会った中学3年生は、9年間音楽教育を受けてきた結果、みんな音楽が嫌いになっていて、最後の1年間で、どんな授業をしたら、音楽が楽しくなるかばかり考えていた。
それから、低学年で、すばらしい成長をとげた子どもたちが、クラスが変わったり、担任の先生が代わったとたん、グダグダになって、すべてリセット!一からやり直し!みたいなこともよくあった。
逆に、大荒れに荒れて荒んでしまった子どもたちが、環境が変わったとたん、魔法がかかったように、素直でなんでも一生懸命やる子に一瞬にして変身してしまった!なんてこともある。
そのときの状況によって、人は豹変することがあるのだ。
自分だってそう。
今まで熱中してきたことなのに、ある日突然熱が冷めることもある。
怒らせると面倒な人には怒らせないように気を遣うけど、気楽な人の前ではすっかり力がぬけていることもある。
自分を丸ごと受け入れてくれる人には素直に心を開けるけど、苦手な人の前だと自分を頑なに閉ざしてしまうこともある。
きっとまるで別人のように、その時々でいろんな自分に豹変している。
わたしはこれまでもそうで、いつかこういう人になってやる、と思ってそれに向かって長期的に計画を立て、そのとおりに動いてそれを達成した、ということがなかった。いつも、行き当たりばったりで何かがしたくなったり、なりゆきで、なんとなく、出会ったものと交流してやっているうちにまた次の流れがきて・・・と、目の前のことに飛びついているうちに今にたどり着いていた、というような感じがする。
世間では夢や目標がないというのはあまり褒められることではないけれど、わたしは目標や夢などのない人は、それらへの執着に縛られることのない、とても身軽な状態だと考えてみてもいいと思う。
目標って立てたとたんに縛られちゃうもんな~。達成されなかったらどうしよう?とか、目標に近づけば近づくほど、あと少し!絶対達成する!っていう執着が強くなりすぎて、他の大事なことを見落としてしまったりすることだってある。
かと思えば、途中でだんだんどうでもよくなって、でもいったん決めた目標だからと無理して達成しようとしたりということもある。
夢や目標はもつべき!とか、夢や目標はもたないべき!とか、そんな目標ももたず、ようするにそういうことを固定せず、縛られず、もちたければもてばいいし、無理してもたなくたっていいのだな。
自分に起こってくることを受け入れて大事に扱うことは、ご縁を大切にするということなのではないかな。夢や目標があると、よほど人間ができていないかぎり、ついついそれらにプラスになると思えることばかりを大切にしてしまうし、そうじゃないものをないがしろにしてしまいがち。。でも、ほんとうはニュートラルに見れば、すべての出来事にご縁があるのだと思う。
あ~、あるな~!スポーツとかで、大会優勝を目標にチームプレーをして、あと一息ってところで誰かがミスをして負けちゃったら、そのミスをした人をめちゃくちゃ責めてボコボコにしちゃうとか。
目標達成よりも大切なことってある。大会もそれに気づくためのご縁になればいいものな。
わたしはそんな感覚であまり先のことを考えずに、洗濯中に桃が流れてきたら無視せずに、おやおやそれならば拾って開けてみましょう、という感じで目の前のことに一生懸命に動くうちに、よいご縁に恵まれてきたように思う。(とくに、怖い桃とかめんどくさい桃などの、ついついスルーしてしまいがちなのが目の前に流れてきたときには、偏見を捨ててそれを拾ってみよう!意外と中はお宝かもしれません。フフ・・)
そうか、目くじら立てて洗濯に夢中になって、桃が流れてきても、
「じゃまじゃま!今洗濯中なんだから!」なんて言って邪険にせずに、
「おうおう、珍しい桃が流れてきたぞ~」って言って、洗濯してたのも忘れて桃拾いに夢中になっちゃう・・・とか楽しそう!
それで、「おじいさ~ん!桃拾ったよ~!」って家に持ち帰ったら、おじいさんが「わしのパンツはどうなった?」って言い出して、「やばっ!洗いかけのおじいさんのパンツ川に流しちゃったかも・・・」ってまた川に戻って、洗いかけの洗濯物探してたら、また桃が流れてきて、「あ?また桃が流れてきた~!今度はちょっとめんどくさそうな桃!」ってまた桃拾いに夢中になっちゃって・・・って楽しすぎる!
桃の中にはどんなお宝が隠れているのかな?さあ、拾って開けてみよう!
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