仏教徒もキリスト教徒もない。ただ宇宙の真理の使徒があるだけ。
ただ永遠の生命の顕現を楽しむだけ
~杖を取り上げるものの経より⑮~
951-17
『これはわがものである』とか
『これはひとのものである』
とかいうことのなくなった人には
わがものという考えが少しもないので
『私にない』といって悲しむことがない
「わがもの」がない人には、
「ひとのもの」もない。
あるのは、ただ宇宙の大法だけ。
それは、客観的なもので、
固定できない、無常の真理。
例えば、お釈迦様にとっても、
キリストにとっても・・・
もともと仏教もキリスト教もない。
それを、人々が固定して、掴んで、
仏教とキリスト教は、
どこが同じで、どこが違うとか言っているだけ。
ただ、宇宙の真理の使徒があるだけ。
人のものだといっても、
今仮に、誰かの名のもとにあるだけ。
すべては、無常法そのものの表れであるとき、
「私のもの」もなければ、
「私にない」といって悲しむいわれもない。
ただ、永遠の生命の顕現を楽しむだけ。
真理の使徒の言葉に耳を傾けて・・・
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