真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

どんなに世間的に偉い人でも、粗暴な言動が見られる限り、信の人ではない。

信の人は、どんな人のどんな生き方を見ても、決して軽蔑しない

~速やかなことの経より⑩~

五つのガーター一気に行きます!

がつん、がつん、と・・・

 

928-14

修行者は非難されても悩まず 

ほめられても思い上らず 

利己心と一緒に 貪りと

怒りと蔭口をきくこととを払い去るがよい

 

929-15

修行者は売買に従わず 

決して人を罵らず 

又村里にいても不機嫌な様子をせず

(それかといって)利益を得ようとして

人と余計な話をせぬがよい

 

930-16

修行者は傲慢な態度をとらず 

又腹に一物あるようないい方をせず

押しの強さを身につけることなく 

人と争うようないい方でものをいわぬがよい

 

931-17

嘘をつかぬようにし 

狡猾(こうかつ)なことをしないように気をつけ

また生活についても叡智についても 

徳行についても 他人を軽蔑せぬがよい

 

932-18

いらいらさせられるような多くの言葉を 

外の修行者や 

色々と悪口をいう俗人から聞いても

荒々しい言葉で答えぬがよい 

何故なら静かな人は仕返しなどしないからである

 

現実の生活の中で、

人々のどんな姿、どんな生き方を見ても、

決して軽蔑したりしない。

 

そこに、そうなるべくしてなっている

深い真理を見通そうと努めるだけ。

 

そして、どんなときにも暴言を吐いたりしない。

 

信心の人はどんなことも

静かに眺めることができるんだな。

 

つまり、どんなに世間的に偉い人でも、

粗暴な言動が見られる限り、

その人は信の人ではないということですね。

 

これまで11のガーターで、

信の人の姿が語られてきた。

 

ここで毎田先生は注意される。

 

信の人は必ずこういう人なんだけど、

こういう人が必ずしも信の人とは限らないよと。

 

例えば、信の人は、

大声を上げて人を怒鳴りつけたりしないけど、

大声を上げて人を怒鳴りつけない人が、

必ずしも信の人ではないよっていうことですね。

 

騙されないように ( *´艸`)

 

 

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