真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

期待したり当てにしたり・・・自分の都合に合わせて物事が運ぶと思い込むのも偏見

立場がないことが「無」

~清らかさの八つの経より⑦~

794-7

彼らは何かを当てにせず 

又何かを取り出してあがめることもなく

これが「終極の清らかさだ」などともいわない

そして世間に結ばれてゆくその執着を切り捨てて

この世の何事にも望みをかけない。

 

私たちは何かを、誰かを当てにする。

 

家族を、友だちを、愛する人を、

「きっとこの人なら自分の思うようにしてくれる。」と

期待する。

 

でも本当はそれは、

一方的な妄想でしかないんだな。 

 

どんな近しい人にも、

その人にはその人の事情がある。

 

こちらの都合にいちいち合わせて

動いてくれているわけじゃない。

 

その当たり前のことに気づかずに、

当てがはずれると相手をうらんだりする。

 

それが愚かなことなんだな。

 

そしてまた、

私たちは世間から、

特に自分の都合に合うもの(人)を取り上げて、

特別にあがめたりする。

 

そのたまたま自分の都合に合う相対的なものに、

無理に絶対性を押し入れて、

「この人は本当に立派だ!」なんてあがめるのも、

偏見なんだな。

 

「これこそ終極の清らかさだ」なんていうのも、

それを摑んでいる限り、

清らかさではないんだな。

 

賢い人は、

物事を自分の思い通りにいかせようと、

何かを当てにしたり期待したりしない。

 

目の前に起こることすべて

自分の都合とは関係なく

真理の法則によって

なるべくしてなっていると

そのままそっくり受け入れる。

 

それが「無」

 

「無」という立ち場があるんじゃなくて、

立場というものがないことが「無」なんだな。

 

 

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