真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

真理の使徒、お釈迦様とキリストが争うはずもないのに・・・

わかったように説明するのも

どっちが本物かと争うのも

わかってない証拠

 

「お釈迦様ってこんな人」

「キリストはこんな人」

なんて、わかったように説明する人は、

 

「私はなんにもわかっていません。」って

言っているようなものなんだな。

 

スッタニパータにはこんな表現がある。

世間の人が

彼をこういう人だとつかまえようとしても 

決してつかまえられるものではない(802)

 

このような人は既に彼岸に渡って 

もう帰っては来ない(803) 

 

真に自在の域に達した人を 

その人はこういう人だということはできない(911

 

 世間のどんな見方、考え方から、

あらゆる言葉を集めて言い表そうとしても、

言い表せない方。

 

ただただ

不思議な光として仰ぐだけ。

 

人間がつかまれることはあっても、

決して人間によって、つかまれることはない方。

 

「お釈迦様は慈悲の人」なんて言っても、

人間が勝手に

「こういう人ならいいな。」って

自分の都合のいいように思い描いた妄想で言っているだけ。

 

キリスト教で言う「愛」も、

キリストが言った「愛」とは別物なんだな。

 

西洋には

「真のキリスト教徒はただ一人いた。

その人は十字架の上で死んだ。」

ということわざがあるそうです。

 

親鸞聖人でさえ、

人間のことばでは言い表せずに、

ただ

「南無不可思議光如来」と言って仰がれた。

 

教行信証のどの一行にも、

「不可思議」の文字があるそうです。

 

福音書のあちこちに

「奇蹟」の文字があるように・・・

 

仏教とキリスト教と比べて、

どっちが本物の教えか?と

争うような人間は、

 

お釈迦様のことも、

キリストのことも、

なんにもわかっていないということなんだな。

 

どちらも真理の使徒

そのおふたりが争うはずもないのに・・・。

 

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