欲望は、人間が個人的な立場ではどうすることもできない。
どうにもならない欲望の塊である自分を投げ出すことが懺悔
~杖を取り上げるものの経より⑨~
945-11
私は欲望のことを
『大きな流れ』といい
吸い込むものとも
飢餓ともいい
又土台とも 計らいとも
越え難い煩いの泥濘ともいう
欲望は人の中にあるのではなくて、
人が欲望の『大きな流れ』の中にある。
親鸞聖人も、「愛欲の広海に沈没し」と言われたように、
無常の真理があらしめる、
大きな流れである欲望を、
個人的な立場で処理なんてできない。
次に「吸い込むもの」と言われる。
親鸞聖人も「名利の大山に迷惑し」と言われたように、
欲望は、人を吸い込んでしまう。
その巨大な力を認識する人は、
簡単に欲望を始末して
無欲になれるなんて考えない。
また、「飢餓」と言われるように、
欲望は、何かでごまかしたり、
紛らしたりできるものではない。
満たされなければ、
命の存亡にかかわるほどのものだ。
「土台」とは、抜くことができないもの。
欲望は、これなくしては人が存在できないもの。
「計らい」とは、
欲望はいくら引っかからないように用心しても、
及ばない、わなのようなもの。
そして、「越え難い煩いの泥濘」と言われる。
欲望は、どうすることもできない泥沼だ。
その泥沼のような欲望の塊である自分を投げ出すことが懺悔だ。
他人に懺悔させるどころではない。
自分自身のこと。
毎田先生は、お釈迦様自身の、
そして親鸞聖人自身の懺悔をここに見ると言われる。
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