真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

論争がある限り、そこに一切真理はない?

「これが真理だ」と主張するのは妄想に陥っている証拠

~小さい堆積の経より①~

878-1

「賢い人達が 

めいめい自分の物の見方に立ち 

それをしっかり摑まえて 

みなが違う説を述べー

『こういうように知るものが真理を知って居り 

これを斥けるものは完全な人間ではない』

といって居ります

 

879-2

その人達は自分の立場を離れないで

いい争い

『外のものは愚か者で 正しくはない』

といっています

その人達はみな自分こそ正しいと思って説いていますが

一体 これらのうちで 

どの説が真理なのでしょうか」

 

 あるある、こういうことは世間では日常茶飯事。

自分の考えがいかに正しいかということを主張し合って、

論争はいつまでも続く・・・

 

一体どれが真実なの?

この問いの答えは?

 

880-3

「もしも他人の説を認めないものが 

愚か者で 畜生で 低能ということになれば

彼等も亦すべて愚か者で 低能ということになる

何故なら彼等はみな自分の説を摑んで

離そうとしない者ばかりであるから

 

 う~ん・・・あまりに明確な答え!

言い争っている人たちは、

みんな愚かということですね?

 

「あなたたちは、そう言い争っている限り、みんな低能なんですよ!」

「なんだと?わかったような口を聞くな!」

「ほらほら、そんなむきになって。それが愚かだって言うんです!」

「なんだ、偉そうに。そっちだってなにもわかってないくせに!」

「いやいや私はちゃんと勉強していますから。あなたよりはましです。」

・・・なんてね。( *´艸`)

 

もう、人間の思考というものが、

ある限られた一面的な立場にしか立てないものだから、

これはしかたないということだな。

 

それを自覚しなさいと。

 

だからこそ、聖徳太子は「愚心難及」「世間虚仮」と言われた。

親鸞聖人はご自分を「愚禿の親鸞」と言われた。

 

自分の愚かさを知ることが智慧なんだな。

ここにこそ真理があるんだな。

 

この愚かな人間であるわたしたちが、

何を拠りどころとして、

何を楯にとって、

何を規準として、

論争することができるかと。

 

一面的にちっぽけな堆積を積み上げて、

「これこそが正しい」なんて主張している

愚かさを知りなさいと言われるんだな。

 

 

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