真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

「こうしなきゃ!」とか「こうすればいい」とか、そういう摑めるものがなにもない

 ただ計り知れない生命をそこはかとなく生きる

~闘争と論争の経より⑦~

877-16

静かな人はこんな人達が

『拠りどころをもつ人』であると知り

その拠りどころが一体何であるかを明らかにし 

それを離れて自由の人となる

しかも智慧の人が決して

あれこれの生き方をしないことを知っているから

人といい争ったりしないのである」

 

 「ここまでくれば最高」という

悟りのゴールを決めてしまう人は、

無限の清らかさを知らない人ということになってしまう。

 

だからといって、

「そんなゴールを決めてしまうようなのは、

捉われている証拠だ。

大切なのは、

そんなゴールに捉われずに、

無になることだ。」なんて主張するのも、

「無」という一定の立場に陥っている人。

 

これらはどちらも

「拠りどころをもつ人」ということになる。

 

本当の悟りに至った清らかな人は、

こんなことにさえ捉われずに、

無限の不可思議の自在に解放されている。

 

「こうしなきゃ!」とか

「こうすればいい」とか、

そういう摑めるものがなにもない。

 

ただ計り知れない生命を

そこはかとなく生きる。

 

それこそが、静かな人なんだな。

 

 そして、いよいよ「釈尊にまのあたり」第三巻の結びに、

毎田先生は、

我が国におけるこの清らかな人の例として、

 

「悲しき哉愚禿鸞愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して・・・」の親鸞聖人と、

「愚心及び難し」と言われた聖徳太子をあげられる。

 

「こういう人が人と争ったりするであろうか。」と最後結ばれました。

 

 

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