真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

この世界はすべてが必要不可欠の要素としての一大交響楽

何かをあてにするのはやめてこの交響楽の響きを聴け!

~最上のものの経より⑧~

803-8

彼らは何も当てにせず 

何かを取り出してあがめもしない 

色々の教さえも彼らは受けない

このように道に達した人達は 

徳行などを人生の筋道として生きてはゆかない

このような人は既に彼岸に渡って 

もう帰っては来ない

 

毎田先生の解説に打ちのめされた!

私なりに要約してみよう。

 

この世になにも当てにしない。

物も人も自分自身も。

 

それが善くなるとか、悪くなるとか、

そんなことを問題にしない。

 

この世はどこまでもこのままで、

半面がよくなれば半面が悪くなる。

 

すべてが必要不可欠の要素として

一大交響楽を奏でているのだ。

 

汚いもの、醜いもの、悪いもの、残酷なもの、ドロドロしたものが、

清らかなもの、ピュアなもの、美しいもの、気高いものと共に

奏でる交響楽を聴こう!

 

そのなんとすばらしいことか。

 

そこには何かを当てにするなんていう、

ケチくさいしみったれたことはない。

 

そして、特別に誰かをすばらしい人だといって、

取り出してあがめない。

 

共に凡夫としての私たちはみんな兄弟。

同じ人として肩をたたき合う間柄。

 

この人はすばらしい善人だとほめたたえたって、

その裏には大悪人の相がある。

 

この人は大悪人だと嫌ったって、

その裏には大善人の相がひそんでいる。

 

この人はすばらしく賢い人だといったって、

どこかですっとぼけている。

 

聖徳太子の十七条憲法にあるように、

賢く愚かなること鐶(みみがね)の端無きが如しだ。

(丸いわっこにははしっこがない)

 

賢いこと、愚かなことが複雑に絡み合って成り立っているのが、

人間であり、この世界なのに、

その一部を取り上げて、

崇めるのはおかしなこと。

 

崇めるなら、みみがねの一部でなくて、

みみがねそのものを、

オーケストラの一部でなくて、

全体の響きを崇めよう!

 

そこにある生命そのもの、

真理そのものを認識しよう。

 

そのためには、

自覚者の自覚の言葉を歴史的に聞くことは必要だけど、

それを聞いて、

一なる真理を認識するとき、

それが徹底して、

真理そのものとなり、

真理を生きるとなれば、

そこにはただ真理があるだけ。

 

教えを受ける自分もいなければ、

教えを授ける師もない。

 

そんな相対的なものは何もない。

 

そして、徳行すぐれた人として、

お釈迦様を崇める世間の人たちの脳天に、

一撃が加えられる。

 

お釈迦様は、

「徳行」などというものを

人生の筋道とはしていないと。 

 

そして、最後に言い切る。

「もう帰っては来ない」と。

 

ここまではっきりと言ってくださっている。

 

 

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絶対界と相対界のお話

自然農の動画をあさっていたら、なんかすごく大事なことを言っている気がするお話に出会ったので、書き留めておこうと思う。

それは地上に生えた数本の竹と、地下でひとつに絡み合った根っこのモデルを使っての、相対界と絶対界のお話だった。

このお話を聞いて坂爪圭吾さんの「横を見るな。縦を見ろ。」という言葉を思い出した。

人と対する。比べる。人をどうこうしようとする。 → 横 相対界
自分のコアをみつめる。自然界・真理・神とつながる。→ 縦 絶対界

 

では、動画のお話をまとめてみよう。

誰かと対立関係にあるとき、相手に対して要求する(相対界)んじゃなくて、自分自身のずーっと深いところをみていくと、一体である部分(絶対界)を感じる場所にたどり着く。

そのとき、どうしても地下部との接点で詰まるところ(壁)に突き当たってしまう。

相手の行動に対してモヤモヤする。自分を正当化して相手を否定しないと気が済まない。この感情は一体どこにあるのか?その感情と向き合うのが辛いから、すぐに頭が働き始めて、自分を主張して相手に納得させようとしたり、相手の過失を指摘して直させればこの痛みは消えると考えてしまう。または、「これは子どもの頃のあんな経験のせいだ」とか、「こんな環境のせいだ」とか、なにかと結びつけてなにかのせいにしようとしてしまう。でも、そこを頭で考えずに、その感情がどこにあるのかただただ観る。ジャッジ(価値判断)をせずにただただ観る。

すると何が起こるか???

詰まりがだんだん薄らいで、なんと、絶対界の方に意識が移行していく。今まで敵対していた相手に対するモヤモヤ感がなくなっていって、相手を赦し受け入れられる感覚に変化していく。または、そこまでいかなくても、最初のモヤモヤ感や痛みが変質する。

するとあら不思議?!

自分に変化が起きると、何も表現していないのに、何も相手に伝えようともしていないのに、相手にもなんらかの変化が起こる。これが絶対界で繋がっていることの検証!!

これを一度でも経験すると、自分に対してネガティブなものをつきつけてくる敵(対立する相手や出来事)が、自分の一番のウイークポイントであった、絶対界に進めない壁、詰まりを教えてくれる、大切なパートナーだったということに気づく。

「嫌だな。」「苦手だな。」と思う人がヒントをくれる。そうなるともう、恐れというものがなくなる。

これはなかなか一度ではうまくいかないかもしれない。でも、何度失敗しても、何度も何度もチャレンジする価値のあること。

以上が動画のお話のまとめでした。

私はというと・・・?はっきり経験したとは言えないけれど、これはすごく大事なお話に違いないという確信だけはある。たぶん、たくさんの方がすでに検証されていることだと思う。私も人間関係に躓くたびにこの検証にチャレンジしてみたい。

参照動画 ↓

https://www.youtube.com/watch?v=eRN_vETfqcE&list=PLKX6TS00fSflUsDcpe9cZoNR32P2M9f3P&index=5

 

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「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んで

「音楽とかダンスとか、子どもたちがしたがることができる環境を整えて、思い切りさせる方針に切り替えたら、なぜか学業の成績まで上がってきたんだって」

「先生たちも、カトリック校と違ってフレンドリーで熱意が感じられた」

「何よりも、楽しそうでいい。だから子どもたちも学校の外で悪さをしなくなったんだろうね。学校の中で自分が楽しいと思うことをやれるから」

まず、この部分を読んで、一気に引き込まれた!

日本人の母(イエロー)とアイルランド人の父(ホワイト)の両親をもつ男の子のお話なんだけど、さまざまな差別、学校、音楽・・・などなど、興味深いエピソードのオンパレードだった。これは書き留めておかねば・・・


  どっちの中学校にする?!

さて、この「ぼく」は、カトリック系の小学校に通っていたが、中学に進学するにあたり、対照的な2つの中学校の見学会に行くことになる・・・

カトリックの中学校では・・・?
初老の校長先生が、全国一斉学力検査での平均点や有名大学に入った卒業生の数など学校の優秀さを語り、続けて上流階級風の英語を話す生徒会長が学校生活がいかに有意義で素晴らしいかを朗々とスピーチする。

近所の中学校(元底辺中学校)では・・・?
若い校長先生のスピーチは学校説明よりもジョークのオチを言うタイミングに傾注し、本気で笑いを取りに来ている感じ。「もう終わり?」というくらい簡潔。次は生徒会長が・・・?と思いきや・・・

※ ここからです!私がわくわくしたところは!!!

「さて、次は、わが校が誇る音楽部の演奏を聞いてください」
いきなり彼の背後の幕がサーッと上がる。
中から出てきたのは、あらゆる楽器を持ってステージ上に並んでいる夥しい数の制服姿の中学生だった。ギター、ベース、キーボード、ドラムに加え、ブラス隊、パーカッション、ウクレレウッドベース、ピアニカ、なんだかよくわからない民族楽器のようなものを手にして立っている子もいる。
楽器の音も声も動きも多種多様過ぎて、みんなバラバラなのになぜか一丸となっていて、なんでこんなに雑多な演奏なのにサウンドはまとまっているんだろう。と、考えてしまったのだが、わりとすぐにその答えはわかった。みんな楽しそうだからである。全員がエンジョイしているから、その陽気なヴァイブで細かいことはぶち飛び、パワフルな楽しさのうねりが生まれている。

これはまさに、私が学校の音楽教育に抱いてきた違和感や、私の大好きな坂爪圭吾さんの音楽や、まえだゆりなさんの音楽や、映画「天使にラブソングを・・・」を観て以来ハマった、ゴスペルに通じるものを痛感してしまった。

そして、その後校舎内をまわり、音楽室に案内される場面では・・・

ザ・シャドウズ、ジ・アニマルズ。ザ・フー。名だたるブリティッシュ・ロックの名盤アルバムのジャケットが両側の壁にずらりと貼られていたのだ。何よりこの並べ方に信頼がおけるのはロニー・ドネガンから始まっている点だ。ビートルズザ・ローリング・ストーンズピンク・フロイドデヴィッド・ボウイレッド・ツェッペリン。T・レックス・・・なぜこんなものたちが学校の廊下に。~中略~ザ・スミス、ザ・ストーン・ローゼス、オアシス、ファットボーイ・スリムとだんだん現代に近づく並びを眺めているうちに音楽室兼音楽部室の入り口に到着した。
「ここは、学校中で私が一番好きな部屋です」

洋楽詳しくないので、そんなにわからないけど、なんかこの感じわくわくする。「音楽室が学校中で一番好きな部屋」って素敵すぎる!子どもたちに言わせてみたい!しかも、音楽室の奥にはガラス張りのレコーディング・スタジオまであったのだ。こんな夢のようなことが現実だなんて?!しかも公立の中学校で・・・

そして、すったもんだの末、結局息子は、近所の中学校を選ぶことになる。

・・・で、新入生は団結力と協調力を高めるために、なんとミュージカル(アラジン)に取り組むのだ!素晴らしい!素晴らしすぎる!!

そして、そこでも面白すぎる事件があれこれ起こる(≧◇≦)(省くけど)

 

  これまた衝撃的なクリスマスコンサート

それまでクリスマスというと、カトリック系の小学校では、教会で聖歌隊の歌を聴き、厳かに過ごしてきたのだが・・・

この中学校では、子どもたちが作詞作曲したオリジナルソングを披露するコンサートが行われた。中でも衝撃だったのが・・・

楽器も持ってないし、ひとりでいったい何をやるんだろう、と思っていると、不愛想にジェイソンは言った。
「俺は坂の上の公営団地に住むラッパーです。今日は俺が書いたクリスマス・ソングをやります」
そう言って音響担当のほうを見て頷くと、講堂にトラックが響き始め、畳みかけるようにジェイソンがラップを始めた。

「父ちゃん、団地の前で倒れてる
 母ちゃん、泥酔でがなってる
 姉ちゃん、インスタにアクセスできずに暴れてる
 婆ちゃん、流しに差し歯落として棒立ち
 
 七面鳥がオーブンの中で焦げてる
 俺は野菜を刻み続ける ~」

ゲラゲラ笑って受けている保護者と、「中学生に何を歌わせているんだ?!」という嫌悪感を示す保護者・・・そんな中、先生たちはというと・・・?

校長も、副校長も、生徒指導担当も、数学の教員も、体育の教員も、全員が「うちの生徒、やるでしょ」と言いたげな誇らしい顔をしてジェイソンに拍手を贈っていたのである。
いまでもいろいろ問題はあるにせよ、元底辺中学校に「元」をつけたのは、きっとこの教員たちの迷いのない拍手なのだ。

こんな風なのだ。

 

  対照的な授業風景

前後格差・・・カトリック校(学校あるある)

授業の見学が許されている教室はあらかじめ指定されていたので、他の教室は見てはいけないと思いながらも、ちらっと覗き込みたくなるのが人情である。ふと教室後部のドアに埋め込まれたガラス部分から中を覗くと、最後部に座っている生徒たちが机の上で堂々と雑誌を読んだり、携帯をいじったりしているのが見えた。「自習中かな?」と思って、前方の扉のガラスからも覗いて見ると、ちゃんと教師はいた。いるどころか、ホワイトボードに長い数式を書き込んで熱心に説明中で、前方の生徒たちは、最後部の生徒たちとは正反対の真剣さで、先生の話に聞き入り、ノートを取っている。

雑誌や携帯はないにしても、授業に興味がわかなかったり、ついていけなかったりする子たちが、取り残されていくのは、珍しくない光景。多種多様な子どもたちを相手に、ひとりの先生が一斉に限られた時間で決められたことを指導していくというシステムでは、よっぽどの工夫がない限り、たとえどんなベテランの先生の授業でも、こうなるのは当然すぎる。


廊下で勉強・・・元底辺中学校

各教室の外にテーブルと椅子が置かれていて、教員と生徒2、3人が座って勉強しているのを見た。
「なんで廊下で勉強しているんですか?」と聞いたら、授業に集中していない生徒には廊下に出てもらって別の教員と一緒に少人数で勉強してもらうシステムになっていると言っていた。「取り残されている子たちを作らないことが、目下、我が校の最大のテーマなんです」と。

日本でもこれに似た実践をしている中学をテレビで見たことがある。この方法には、いろいろ配慮が必要かと思うし課題もあると思う。でも、少なくとも、自分のペースで学習できる環境が与えられているだけで、同じ学習内容でも、子どもたちの取り組みは全然違ってくるだろうことは、子どもの身になってみればよくわかる。

 

  タンタンタンゴはパパふたり

これは絵本のタイトルなのだけど、「はらぺこあおむし」や「かいじゅうたちのいるところ」と同様、どこの園にも必ずある名作で、英国の保育業界では「バイブル」と言っていい。と書かれている。著者の住むブライトンは、LGBTの人々が多く住んでいる地域で、著者が昔勤めていた保育園にも、同性の両親をもつ子どもたちが何人もいたとのこと。子どもたちはこの絵本が大好きで、何回でも「もう一回読んで!」と言ってくるそうだ。そんな中でのエピソードに、私はまたしてもビックリした!!

「タンゴもジェームズと同じでパパが2人だから、いいなあ。うちもパパが2人のほうがよかった」
その子にわたしは聞いてみる。
「なんでパパ2人のほうがいいの?」
「だって3人でサッカーできるもん」
すると隣から別の子が言う。
「えーっ、ママが2人のほうがいいよ」
「なんで?」
「ママのほうがサッカーうまいもん」
「僕んちはママだけ。でも時々ママのボーイフレンドが来る」
「うちはパパひとりとママが2人。一緒に住んでいるママと週末に会うママ」
「うちのパパはいつもはパパなんだけど、仕事に行くときは着替えてママになる」
いろんな家庭のいろんな子どもたちがいた。同性愛者の両親を持つ子ども、週日は義理の母と暮らし、週末になったら実母の家に泊まりに行く子。女装のパブシンガーの父親を持つ子ども。彼らは自分の家族が他の子の家族と違うことをまったく気にしていなかった。それぞれ違って当たり前で、それを悪いとも良いとも、考えてみたことがないからだ。

 

  エンパシーとは他人の靴を履いてみること

子どもの権利等について学ぶ、シティズンシップ教育の試験で、「エンパシーとは何か」という問いに、息子は「自分で誰かの靴を履いてみること」と書いた・・・というエピソードが出てくる。
そして、彼はこの学習がすごく面白くて好きだと言っている。
ここでも私は「う~~~ん、素晴らしい!」とうなってしまった。
それについて語る息子の言葉はこちら!

EU離脱や、テロリズムの問題や、世界中で起きているいろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみることが大事なんだって。つまり、他人の靴を履いてみること。これからは『エンパシーの時代』って先生がホワイトボードにでっかく書いたから、これは試験に出るなってピンと来た」

そして、著者の言葉でシンパシーとエンパシーの違いについてこんなことも書かれていた。

シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出てくる。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

 

貧困家庭の子の万引きを咎めるうちにいじめに発展していく場面で、こんなセリフが出てくる。

「自分たちが正しいと集団で思い込むと、人間はクレイジーになるからね」

「『あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけが、この女に石を投げなさい』と新約聖書ヨハネ福音書でイエスも言っているしね」

おお~これは、圭吾さんもよく引用される聖書の言葉!

本当に、他人を咎める資格のある人なんていないのでは・・・?

自分が正しいと思い込んでいる人が一番やっかいだ!と思うそばから、「おまえのことだぞ!」っと耳元でささやかれている気がする。
自分を含めてみんなそうなのだ。自分は正しくて、自分の考えと違うものや、知らないものは受け入れ難い。

 

 「ブルー」はいつの間にか「グリーン」に・・・

結局「ぼく」は、いろんな理不尽な思いもするのだけど、最後はバンドを組んで、みんな歌にしてしまうというところがまたいい!楽しい!面白い!ちょっと引用すると・・・

ティムが「マージナライズド」という言葉を繰り返すところで、息子とベース担当の子が「ウウウー」とコーラスを入れるのだが、それが全然ハーモニーを成してないというか、あまりに音程が外れているのでホラー映画のサントラみたいに不協和音を醸していて、思わずぷっと噴いた。ちょっと失礼かなと思ったが息子も笑い出したので心おきなくわたしも爆笑する。
「ははははは。めちゃくちゃな曲だけど、いいじゃん。~」

そして、最後に「ぼく」は、「お母さんは僕の言葉『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』っていうのを使って、何か書いてるようだけど、もうブルーじゃなくて「グリーン」(未熟・経験が足りないのような意味)だから。みたいなことを言う。いろいろあるけど、もうブルーな気持ちはふっとんで「まだまだおれたちこれからだよ~!」みたいに前を向き始めた感じかな?

それならわたしもグリーンだな。まだまだ知らないことばかり。まだまだこれから。まだまだ変わり続ける・・・

 

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イワンのばか

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ジャイさんのおススメで「イワンのばか」という本を読んだ。

 

どこから来たかと言うと、

奇跡のリンゴ」の木村秋則さんが読んだ、

「わら一本の革命」の福岡正信さんが読んだ、

「イワンのばか」(byトルストイ)という流れだ。

木村秋則さん、福岡正信さんもすごすぎる人だった!)

 

「イワンのばか」は、昔、童話で読んだことがあるような気もするけど、なにも残ってなかったとは?!

これはすごい!これはすごい本だった!!!

やっぱり読むタイミングってあるんだな。

で、何がすごいって説明するとなると難しいし、見当違いなことになりそうなので、ビビビっと今の私に響いたことをしぼって書いてみよう!

 

自分を守らない

イワンはなんと言われても、バカだと言われても、「そうか、よしよし。」と言う。

そして、いよいよ戦争をしかけられたとき、イワンの国の人たちはというと・・・ここで「自分を守らない」という言葉がやたらと出てくる。

〇兵隊どもが彼らから穀物や家畜を奪っても、ばかたちはとるにまかせて、だれひとり自分を守ろうとするものがない

〇(兵隊がどんどん進軍してきても)なんでもさっさとさしだして、だれひとり自分を守ろうとするものはなく、かえって彼らに、自分たちのところへ来て暮らすようにと勧める始末。

〇兵隊どもは、どんどん進軍をつづけたが、どこにも軍隊の姿は見えず、国民はみな働いて、自分やほかの人たちを養いながら暮らしており、自分を守ることは少しもせず、ただこちらへ来てお暮しなさいとすすめるばかり。

 

そして、とうとう戦争にならないとわかると、兵隊たちは村を荒らし、家や穀物を焼き、家畜を殺しはじめる。ところがまた・・・

〇ばかたちはただ泣くばかりで、だれも自分を守ろうとするものはない

 

そして、兵隊どもはとうとう逃げ散ってしまう。

 

「自分を守らない」ってすごい!これほど強いことはないな。

気づくと自分を守ることに必死になっているわたし。

自分を守ると外の世界と対立し、自分の狭い世界に閉じこもっちゃう。

自分を守るのをやめて、自分を投げ出せたときの、自分以外の世界との境界線がなくなるような、世界と一体になれる感覚は素晴らしい!

 

人をあてにしない

この本には、九つのお話が収められていて、その中に「洗礼の子」というお話がある。そこには三つのエピソードが出てきて、それが最後に主人公のエピソードと重なるところがある。

一つ目のエピソードに、「百姓女が汚れた手拭でテーブルをいくら拭いてもきれいにならなかったけど、その手拭をきれいに洗ったらはじめてテーブルがきれいになった。」という話が出てくる。

そして、このエピソードと重なる場面がこちら。(主人公に、全然言うことを聞かなかった追剥が心を許す場面で言うセリフ。)

「~おまえがはじめわしを説いた時には、わしはただよけいに悪くなるばかりだった。わしがおまえの言ったことについて考えだしたのは、おまえが人から隠れて、人の助けなどあてにしなくなったのを知った時だった。~」

私は、このせりふにすごく反応してしまった。

すごく思い当たる。

つい人を批判的に見てしまうとき。

人に説教しようという気がムクムクと出てくるとき。

でもそれをしても相手はますます意固地になったりする。

これって汚れた手拭でテーブルを拭いているようなものだったんだな。きっと。

 

じゃあその汚れってなんだ?どうしたら汚れは消える?

 

ここには「人の助けなどあてにしなくなった」とある。

 

人をあてにする気持ち。人に期待する気持ち。人を自分の都合に合わせてどうこうしようとすること。

 

誰かにやってもらうのがあたりまえになっていること。

ちゃんと言葉にしてお願いせずに、察してやってくれるだろうと期待してしまっていること。

この人ならきっとわかってくれるという妄想。

人に認めてもらおうとする気持ち。

そういうものを得ようとして媚び諂うこと。

それはみんな捉われ。

 

そんな捉われから解放されて、誰もあてにせず、すべて世界に任せていられたら、それはなんと清々しいことか?!

こんな清々しい人の言葉は、真理として響いて、聞く人を素直な気持ちにさせる。

 

 

「イワンのばか」を読んでから、この二つの言葉がぐるぐるしている。

 

私もイワンみたいにバカになって、あっけらかんとしたい!

 

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自分だけは自分をうらぎらないって確信がもてたら・・・

 

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この厳しい中にも愛のあるお言葉を自分にもう一度送ろう。

 

そう、嫌なことはやめるんです。

「人を傷つけたくない」と考えることは悪いことではないとは思うんです。思いやりがそういうふうに働くこともありますよね。

でもそれでもやっぱり、他者が傷つくかどうか、それがその人にとって悪いことなのかどうかは、わたしたちにはわからないものだと思います。それを、他人が勝手に決めることはできないと思うんです。

自他ともに幸せを願う上で、~   これは悪~く言えば「嘘」だと思うんです。  ~気づいていようといまいと、それは欺瞞だと思うんです。
自分のことをまずハッピーにできない人が、他者の幸せを心から願うことはできないと思うからです。

他の人だって、その人の幸せは本人にしかわからないというのに。だからその人が幸せを実現したければ、その本人がそれを優先していくしかないというのに。自分がそれをできなくて、人がそうするのをどうやって応援できましょう。

わたしがあなたを創った神さまだったら、可愛いあなたが好きにしていないことがなによりも悲しいです。

めちゃキツく言うと「自分を蔑ろにしていい人ぶってるからしたいこともできないんじゃないか?」となってしまいますが、『自分の好きなようにするということに注目し始めて、そこをなんとか突破してみたいと考えている』のって、自分を犠牲にしていることにすら気が付かないでいるよりもずっとずっといい。ずっと自分思いだと思います。

 

そんなあなただから、きっと人生のどこかのタイミングで、このモヤモヤを蹴破れますよ。大丈夫。そんなパワーが、あなたにはあるのだ!

 

 

そう、自分はいつだって自分と共にある。

 

嫌なことを「嫌だ嫌だ」という思いと戦いながらやっているとしても、それをしないことで、誰かの不機嫌に出会って傷つくことから、自分を必死で守ろうとしている自分がいる。

 

自分の本当の声に耳を傾けようとしているときも、その自分の願いを一生懸命叶えようとする自分がいる。うまくいかないことだってたくさんあるけど、諦めずにあの手この手で一生懸命叶えようとしてくれる。

 

でも、そんな自分を信じることができるようになったら、もういろんなことが(いい意味で)どうでもよくなってくる。

 

いざとなったら、自分は自分を守るために必死になってくれることも、自分の願いを叶えるために必死になってくれることもわかったから・・・。もう例え誰になんと言われて傷ついても、たとえ願いが叶わなくても・・・。どこにいても、どんな状況の中でも、自分だけは自分をうらぎらないって、少しずつ信じられるようになったから。

 

 

 

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もういいから。息をしているだけでも・・・

自分の心の中をのぞいているうちに発見した、気になる自分について書いてみよう。それは・・・

 

誰かに認められることを期待して何かしようとしている自分。

誰かに認めてもらうことで自分の価値が上がるような気になっている自分。

誰かの期待に応えないと、自分の価値が下がってしまうような気になっている自分。

何もしないでいると、どんどん自分の価値が下がっていってしまうような焦燥感に駆られている自分。

 

そして「なんだ、私ってこんなダサかったのか~。」とがっかりする自分。

 

その後、自分に言い聞かせてみた。

 

「いいかい?ポチくん!君が何をしたとしても、何にもしなかったとしても、君の価値にはまったく変わりはないんだよ。」

 

それからまた考えた。

 

ところで、この「価値」ってなんだ?

 

それすらもはっきりしない。自分の頭の中で勝手に作り出して、自分で勝手に設定したものだ。

 

それってつまり、自分で自分に振り回されているってこと?

自分で自分のことが信用できていないってこと?

 

そして考えているうちに、振り回す「自分」と振り回される「自分」と信用できない「自分」と、信用してもらおうとがんばる「自分」と・・・って「自分」がいくつも出てきて、なんだかわけがわからなくなってしまった。www

 

こんなこと考えるのは私だけ?

 

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人々がとても愛しいのに、彼らの避けがたい悲しいことも、もうそのままで仕方がないと思う。仕方がないと思うのに、辛くあってほしくない、嫌な思いをしないでほしいとなにより強く願う自分もいる。そして、こんなふうに矛盾を抱える自分すらも、仕方がないと思う。

こうして、自分の人生がそもそも逃れようのない『苦』であると認めてしまったら、それと同時に立ち上がってくるのが、逃れようのない『幸福感』だった。

わたしは自分に、息をしているだけでも、いいよ、いいよ、と思っていてもらえる。ほとんど無条件に、すごいね、がんばってるね、どんなにすごいか知ってるよ!と言ってもらえる。だって、生きてるだけで苦なのだから、それをこなしているのだから。おまえ、しゅごいね・・・!と思っている(ホント笑)

失敗すれば失敗した日にこそ、自分というわが子を愛しく思う。失敗に落ち込む頼りない自分の姿は、わたしの目には守って慈しんであげたい存在に見える。わたしはわたしに、こんなに駄目なやつなのに愛してもらえる。

生きているだけで、素晴らしいと思える。
わたしは幸せだ・・・生きているだけで幸せだ。

それは、自分が少しでも苦のない人生にしようと思っていた頃には見えていなかったもの。苦を認めなかった頃には、わからなかった感覚だった。
今はこの世が苦であること、自分がこの苦の中にあることに、完全に諦めている。そこに生まれて、良かったねと思う。生きるってすごい経験だ・・・

 

ホントに自分は自分の我が子みたいだな。

 

「お~成長したね~」って眩しく思えるときもあれば、「いつまでたってもおバカさんだね~」って呆れるときもある。ぐるぐる考えすぎて何がなんだかわからなくなったりもする。そんな自分に今日は私も言ってあげよう。

 

「もういいから。息をしているだけでも・・・」   

 

 

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究極の選択で遊んでみよう

今日は壇珠さんの記事にあった、この究極の選択で遊んでみよう!

 

まずは・・・?

a)お金がたくさんあって買い物で最高の思いをするが恋愛の経験のない人生
b)  お金をたくさん得る経験はないが恋愛で最高の思いをする人生

 

これは・・・b)だな~!いくらお金があっても人の温もりは買えないからな~。

 

次は・・・? 

a)あなたの夢や望みは叶うが、今のあなたの環境やあなたが大事だと思っているものは手放すことになる
b)あなたの今大事にしているものは生涯持ち続けられるが、あなたの夢や望みは叶わない

う~ん、これは迷う。夢や望みに何を設定して、大事にしているものに何を設定するかで変わる気がする。

でも、思い切って、a)を選んでみよう。

理由は、「手放す」ということばになんとなく惹かれる。

「大事にしているもの=個人的な執着」で、「夢や希望= 自分の力が個人を超えた世界に働くこと」というイメージで・・・

 

最後はこれ!

a)生涯をお金持ちとして才能を発揮して生きられるが黒歴史だらけ
b)生涯を清廉潔白に生きられるが才能を発揮せず凡人として終える

う~ん。これも難しい。

でも、思い切って選べるかはわからないけど、そんな度胸があるかはわからないけど、選べたらいいな~と思うのはa)。

やっぱり二番目の問題と似ていて、例えイメージ悪くても、黒歴史だらけでも、この世に生まれたからには、自分になにか才能があるのなら、それを開花させてみたいもの。

 

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そして、読んでいるうちにふと思い出した。ヽ(^。^)ノ

 

昔読んだ小説「世界の中心で、愛を叫ぶ」に出てきた究極の選択のシーン。

 

a)好きな人と一緒に暮らす

b)別な人と暮らしながら好きな人のことを思い続ける

 

どっちが幸せ?

 

そして続けて思いついた。こんな究極の選択。

 

a)あれあれ?って思うくらい簡単に夢が叶ってしまう人生

b)ちっとも叶わない夢を一生追い続ける人生

 

こんなのも思いついた。

 

a)自分の働きをみんなに認められて、褒めまくられる。

b)自分の働きがみんなを幸せにしたんだけど、それが自分の働きだって認識されない。

 

a)に飛びつきたくなるよな~。でも、よくよく考えてみると、a)の方がそのときの幸福感は強いのかもしれないけど、そのうち満足できなくなって、「もっともっと」ってなって、そのうち醜態をさらしてしまいそう。b)の方が密かに安らかにじんわりと満たされてなんだか美しい。

 

そして、懐かしくページをめくっていたら、折り目をつけて鉛筆で囲ってある言葉があった。

 

「人生には実現することとしないことがある」祖父は諭すように言った。「実現したことを、人はすぐに忘れてしまう。ところが実現しなかったことを、わしらはいつまでも大切に胸の中で育んでいく。夢とか憧れとか言われているものは、みんなそうしたものだ。人生の美しさというものは、実現しなかったことにたいする思いによって、担われているんじゃないだろうか。実現しなかったことは、ただ空しく実現しなかったわけではない。美しさとして、本当はすでに実現しているんだよ」

なんか深いな~!

 

 

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主役だろうがわき役だろうが背景だろうが空間だろうが、どれも同じように貴重な1ピース

人生のこと、世界のことを、パズルのピースとしてイメージしてみると・・・?

 

パズルのピースをはめていくと今という一枚の絵になるのだけど、そう考えると、そのひとつひとつのピースの重要度というのはどれも平等だ。たったひとつがなくても、絵が完成しない。その点において、どのピースも同じ重要度だということになる。

 

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♫剣の舞♫という曲がある。

先日、この曲を物語仕立てにして、音を背景や配役みたいに考えて、音楽の授業で扱ったところ、子どもたちとのやりとりで、とても楽しい展開になった。

 

最初に、ティンパニの「ドンデンデンドン」という音を〇4つで表した図と、木琴の「テテテテテテテ・・・テレレテテ テレレテテ・・・」というメロディーを短い線や曲線で表した図を示して、曲を流し、どっちが先に出てくるか聞くと、多くの子が「木琴」を差した。ティンパニのリズムは冒頭からずっとこの曲を支えているのだけど、主旋律の木琴の音があまりに印象的で、子どもたちはそれに気づいていないのだ。木琴が登場する前にすでに「ドンデンデンドン」は4回も繰り返されているというのに・・・。

  

「もう一回!」というリクエストに応え、2~3回聴かせるうちに、やっと「ドンデンデンドン」に気づいてくれた。

 

そこからは、なぜかクレヨンしんちゃんに配役を例えて話が進んでいった。

 

主役・・・しんちゃん(勇ましく暴れている。)

支え役・・・背景(外の景色。例えば道とか壁とか)

わき役・・・シロとか、ねねちゃんとか、ひろしとか、みさえとか・・・

ってことにして、合いの手(ときどき入るトロンボーンの象の鳴き声みたいな音)が入ると、

「あ、シロが顔を出した!」とか、「みさえが叫んだんじゃない?」

 

そして、中間部に入ると、

「あれ?しんちゃんさっきまであんなに勇ましかったのに、なんかちょっと元気なくなった。」

別のメロディーが重なってくると、「ねねちゃんが出てきて励ましてる。」

そのうちいろいろ出てきてみんなで大騒ぎになって、途中でバチバチ始まって、最後は散り散りに逃げて行っておしまい!

・・・というわけで、思いのほか話が盛り上がった。

 

それ以来、クラシック音楽を、図やセリフに置き換えて、物語風にするのがマイブームになっている。

 

え?なんでこんな話になったんだっけ?

 

・・・そうそう、このパズルの1つのピースが欠けても絵は完成しないのと同じで、音楽も実はいろんなパートがいろんな役を担っていて、よく聴くと、「あ~こんなところで、こんな音が(休符さえも)この音楽を支えてくれていたんだ~」ってことに気づける。それがとても楽しくて味わいがひとしおだ。

 

と、ここまで書いてまた、しばし、「今」のこの私を取り巻く世界の絵のパズルの1ピース1ピースをじっと見つめていたら・・・?

 

なんと、なんと、1週間くらい前から探しに探しても見つからなかった、大事なCDが、思いもよらない本棚のすみっこから、ちょこっと顔を出しているのを発見!!

 

もう、諦めていたのに・・・うれしくてうれしくて、思わず歌いました~!

 

♫探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で

 踊りましょう 夢の中へ 言ってみたいと思いませんか♫

 

 

♪うふふ うふふ うふふ さあ~~~~~~♪

 

 

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