真実はニュートラルから
こういうお話、好きだな~。
こういうときに、そういうことをすると、それはバレなくてもその人に返っていくんだからいいんだ、という人がいるけれど、自分はどうにも、それが悲しく思えて仕方なかった。
その人の、「誰にも見えねえところだから、いいんだよ」と思ってしまう心が悲しかった。それがその人に返っていくのが悲しかった。
でも、今は自分に、信じろ!!と思う。自分がしょうもないニートだった頃や、自分が人の気持ちを今よりも考えられなかった頃や、自分が三日坊主だった頃を思えよ!と思う。それがあったからこそ今があるのだもの、その人だってそれを活かすポテンシャルにあふれていることを喜べばいいさ!!と思う。邪念を腹の力で吹き飛ばしてそれを信じると、あの悲しい気持ちがひっくりかえったように、なんだか輝いてくる。
だからやっぱり、毎日投稿を書くのに、手を抜くまじ、と思う・・・
壇珠さんの毎日投稿は、日々新しい気づきを与えてくれる。だから毎日読むことはもう当たり前のようになっている。もう私の大切な日課になっている。こんな質の高い日課ってあるかな?って我ながら思う。
よく言われるようにわたしたちには、たとえば切なさを感じないようにすると、喜びも感じられなくなってしまう、という心のしくみがある。
悲しみや切なさを感じないようにすると、感情を感じることそのものを麻痺させてしまい、結果、喜びも感じられなくなってしまうのだ。感情に蓋をしてしまう、ということだ。
だから、真のナチュラリストというのは、人生に起こることをそのまま味わう人を言うのだと思うのだ。
門松を「めでたいと思う」も「めでたくなどないと思う」も、わたしたちのものの見方ひとつだ。というのは真理だけれど、そもそもその奥には「門松そのものに意味などない」という気付きがある。これこそがニュートラルということだ。
この、ニュートラルというのが、どうしても私難しい。
もう、頭であれこれ考えるくせがついてしまっているからか、いろんなことに身構えたり、前もって準備したりしてしまう習慣がついてしまっているからか、ニュートラルになろうとすればするほど難しい。
からすが鳴いたのを聞いて悟りを開いたという一休禅師は、マラリアのために亡くなった。その死に際のひと言は「死にとうない」だったのだそう。弟子たちは、ええ~・・ドン引きなんだけど!なんとみっともない!師は悟ってなどいないんじゃないか?と思って、さぞかし驚いたことだろう・・!
しかしこれは、自分を悟りを開いた僧として立派に見せようという意図もなく、死を恐れるでもなく、自分を慰めようとする言葉でもなく、生きていることを諦めるでもなく、死に瀕した際に己の身に立ちのぼった思いをそのまま伝えた見事なひと言として有名である。くぅ~っ、しびれるぜ・・
ここで、「くぅ~っ、しびれるぜ・・」と洩らす壇珠さんに私はしびれる。
私の愛読する毎田周一先生の本には、キリストが十字架の上で叫んだと言われる最後のことば「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか!?」という言葉がよく出てくる。これこそは真実の言葉だと、熱を込めて語られる。
きっと毎田先生は、壇珠さんが一休さんの「死にとうない。」にしびれるのと同じ感覚だったのかなとふと思う。
それが私にはまだよくわからない。言われてそうなのか~と思うけど、どちらかというと、「え~?みっともない。悟ってないじゃん!」みたいな感覚の方がわかってしまう。
人生で起こるさまざまな出来事を、勝手に意味づけしないで味わおう!
どうポジティブにするか、どの程度味わうか、というところをうまいことコントロールしようとする小賢しさを捨てて、味わって感じきっている自分を眺めるところに立って、ちょっと『禅』に人生を歩いてみるのって、とても素敵だ・・!
さすらばきっと、閉じていた蓋が開いて、知らなかった深い深い切なさが、同時に知らなかった感激と喜びが、わたしたちのゆく道に咲くのだろう。
その知らなかったほどの喜びは、今までにないなにかを連れてくる。
そこからしかうかがい知ることのできない、わたしたちの奥底に眠っている未開のポテンシャルとともに。さて、自分をそのまま自然にさせてみたら、ほんとうのあなたは一体、どんなスケールの存在なのだろう!きっと、想像を超えるものだと思うぞよ!
これですね?!
「どうポジティブにするか、どの程度味わうか、というところをうまいことコントロールしようとしてしまう小賢しさ」これが捨てきれないんだな。
もっと自分を追い込んでみたい。そうしたら蓋は開くかな?
「味わって感じきる」自分をもっともっと眺めてみたい。何に出会ったときに、眠っている未開のポテンシャルが引き出されるのかな?
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