「自分を見る」「自分を知る」の自分もなくなるってどういうこと?
自覚者の「自」もなくなった覚者 とは?
~大きい堆積の経より⑨~
908-14
『私は知る 私は見る これが本当である』
というような考え方で
ある人々はそこに清らかさがあると信じているが
もし何かを見たとしても
それがその人自身にとって一体何になるのだろう
彼等は本来居るべき処をゆき過ぎて
即ち他のものによって
清らかさをいっているのに過ぎない
909-15
見る人は名と形を見るのであるが
それを見るときには
一応それらをそれとして知るのであろう
そして見ようと思うならどんなことでも
それらをそれとして見るがよいだろう
しかし聡明な人は
それらを見ることによって清らかになるなどとはいわない
う~ん、これ難しいです。( ;∀;)
「何か」を見る自分。
または「自分」を見る自分。
こうして対象がある限り、他のものがある限り、
それは清らかとは言えない。
見られるものも見るものもない「見る」。
知られるものも知るものもない「知る」。
そういう状態にならなければ、
清らかとは言えないと言われる。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
もうすでに真理と一つで、
何か他のものなんて見てはいられない。
働くことが見ることで、
見ることが働くことになる。
真理そのものとして働くというところにあるこの直観が
「行為的直観」だと言われる。
直観において真理と一つになるところに、
行為と直観の間に他のものが介在する余地はないと言われる。
「見る人」というのは、
一切の妄想のもとになる「思い」によって、
固定された名と形を見ているだけで、
聡明な人はそこに清らかさがあるとは言わないんだな。
「見る」とか「知る」とかいうことがなくなったところには、
もう「自覚者」の「自」というものがなくなって、
「覚者」となるんだな。
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