真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

「思い」は「枠」。苦しみのもと。そんな枠は外さなきゃ!・・・なんて思うのも妄想?

難しく考えるのはやめよう

~闘争と論争の経より⑤~

前回の「思い」について語られたこのガーターを

わからないなりにも、もう少し考えてみます。

874-13

「自然に思うように思うのでもなく 

間違って思うのでもなく

それかといって思わないのでもなく 

思いをなくそうとするのでもないー

と丁度このように知るものにとって 

形はなくなる 

何故なら 思いによって 

ありとあらゆる妄想が起こるからである」

 

「思い」の中には、

「こうしたい!」と自然に湧き上がってくる思いもある。

これは真理。

 

「こうしなきゃ!」という作為的な思いもある。

これは妄想。枠。

 

例えば、「シュークリームが食べたい」という気持ちを「思いA」として、

「ダイエット中だから我慢しなきゃ」という考えを「思いB」としてみる。

 

「思いA」を「思いB」という枠にはめると、

「シュークリームを食べたいけど、ダイエット中だから我慢しなきゃ!」となる。

 

「思いA」を「思いB」に捉われないようにしようとすると、

「ダイエット中だけど、そんなこと気にしないで、自分の気持ちに正直に!食べちゃおう」となる。

 

「思いA」をなくそうとすると、

「シュークリームを食べたい」という思いを

忘れよう忘れようとすることになる。

 

「思いB」をなくそうとすると、

「ダイエット中だから我慢しなきゃ我慢しなきゃ」なんて

我慢ばかり自分に強いるのはやめようということになる。

 

このどれもが不自然といえば不自然。

 

思いを思いに任せれば、

「まあ、今日のところは我慢しよう。」となったり、

「食べちゃおう。」となったり、

 

「絶対我慢して、ダイエットを成功させる!」となったり、

「もうこんな我慢ばかりはイヤ!ダイエットなんかや~めた!」となったり、

 

または、

テレビに夢中になっているうちに、

シュークリームのこと忘れちゃってたり、

あまりのおいしさに、

ダイエット中だったことを忘れて食べちゃったり・・・

 

それでいいのだ。

 

そのときそのときの思いの流れるままで・・・ということかな。

 

 「思い」の枠に真理を収めようとするのでもなく、

かといって、「思い」の枠に真理を収めないようにするのでもなく、

真理として起こって来る「思い」をなくそうとするのでもなく、

妄想としての「思い」の枠を外そうとするのでもない。

 

思いはその思いのままに・・・

 

あまり難しく考えるのはやめよう(#^.^#)

 

 

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