真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

煩悩そのものは「罪」でなく真理の作用 煩悩によって真理を汚すことが「罪」

自然な生命の働きがあるだけ

~清らかさの八つの経より⑧~

いよいよ清らかさの八つの経最後のガーターです。

795-8

罪の及ぶ境を超えて道に達した人には

何かを知っているとか見ているとかいうことが 

この人を拘束することにはならない

彼は貪ることにも夢中にならないが 

欲を離れることにもむきにならない

彼にはこれがこの世で最上のことだといって

摑まえるものが何もない

 

「罪」というのは、

煩悩によって真理を汚すことなんだな。

 

でも、煩悩そのものが真理の作用で、

永遠の生命で、絶対の事実。

 

この真理そのものとなった人が「清らかな人」なんだな。

 

罪も超えて道に達したこの清らかな人は、

「何か」を知っているとか、

「何か」を見ているとか、

そういう「何か」を取り上げるということが、

いっさいない。

 

「私は仏教を知っている。」

「仏教とはこういう教えだ。」

「その教えは最上の教えだ。」

「私はその最上の教えによって清らかになった。」

 

こんなふうに言うとしたら、

それは本当に道に達した人から見たら、

とんちんかんなことなんですね?

 

清らかさとは、

もっともっと自然なこと。

貪ることに精を出すのでも

欲を離れようと躍起になるのでもない。

 

全く自分の考えを押し込む偏見がない、

自然の生命の姿。

 

その自然な生命から出てくる働き、

そこからつくり出されるものだけが、

本物なんだな。

 

そして、最後の一行からは、

聖徳太子十七条の憲法第十条の最後の一句

「我れ独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙へ」

を感じる。

 

「自分ひとりがわかった!」なんてことは

あり得ないんだと。

 

すべての人の生命を

尊重しなさいと・・・

 

毎田先生は、

聖徳太子の十七条の憲法第十条は、

スッタニパータ第四章の要約だと言われる。

 

聖徳太子の天才を思うこと切であると・・・。

 

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

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