真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

欲望と人間の考えた智慧が混在するところに清らかさはない

真理から直ちに来るもの

~清らかさの八つの経より②~

 

ここに書かれていることは、

私にはすごくわかりにくいのだけど、

これを読み解かない限り、

真理には近づけない気がする。

 

では、まずガーターです。

789-2

もしも人がその人の物の見方によって

清らかとなったり

あるいはまた智慧によって

苦しみを捨てるというのであれば

盲目の命を拠りどころとしているものが 

何か他のことによって

清められるということになる

そんなことをいう人を

偏見の持主というのである

  

「盲目の命を拠りどころとしているもの」っていうのは、

人間の根底にある利己的な欲望をもとに行動すること。

 

それに気づいていないから

盲目的っていうのかな。

 

そこになんの疑問ももたないまま、

「他のこと」・・・つまり

物の見方や考え方や捉え方・・・などによって

清らかになれると思っている。

苦しみを超えられると思っている。

 

根底にある利己的な欲望をなんとかしない限り

清らかになんてなれないのに、

それはしっかりと持ち続けたまま、

 

外から無理やり

「見方・考え方・捉え方」などを押し込んで、

それを智慧だと思い込んで、

「これで清らかになったぞ」と勝手に思い込んでいる。

 

そして、それを人にも押しつけて、

「わたしはこうして清らかになった。

あなたも是非同じようにやってみなさい。

そうすればわたしのように清らかになれるから。」

と信じ込ませる。

 

そういう人が

偏見の持ち主だと言われる。

 

毎田先生は、

人間の利己的な欲望を一掃してくれるものは、

真理そのものから直ちに来るもので、

人間の考え出した智慧ではないと言われる。

 

そして、

新興宗教や、仏教諸派のお寺でも、

こういう偏見が行われていると指摘される。

 

わたしたちは、気づかずして、

日々この偏見に満ちているんじゃないのかな?

 

 

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