真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

天にしたがう・・・なにかを手放すことで見えてくる本当にやるべきこと

二宮尊徳無私の精神

今、若松英輔先生の

「永遠の今を生きる者たち」

内村鑑三・代表的日本人~という本を読んでるんだけど・・・

 

この本は、

私のスッタニパータの学びの手引書、

毎田周一先生の「釈尊にまのあたり」

の理解をより深めてくれる。

 

内村鑑三先生はクリスチャンだけど、

毎田先生の本でもよくお名前を見かけるので

そこにもつながりを感じる。

 

これも、私にとっては奇跡的な出会い!

 

そこに書かれていた二宮尊徳さんについてです。

 

尊徳さんは、

一生かけて没落した生家を再興させようとしていた。

でも、その途中で小田原藩主に、

領内の荒れた農村を復興させてほしいと請われた。

 

そのときのようすを記した内村先生の文です。

「自分の家を投げ出してはじめて、

千軒の家を救うことができる。」

尊徳は自らに言い聞かせました。

自分の大切にしてきた望みを

犠牲にすることにつき、

妻の同意をえ、

「先祖の墓前では声を出して」

決意を告げました。

家を処分し、

別世界に旅立つ身のように

「背後の舟を焼き払って」故郷の村を後にし、

主君と住民にあえて約束した仕事にのぞみました。

 

若松先生の文から引用します。

尊徳は自分のやりたいことではなく、

人々に求められていることに全身全霊を注ぎます。

 

そうしたとき、

自分の内に思わぬ力が湧き起こってくる。

 

失うことを恐れて行動しないことがないよう、

失うものがないところに立ってみる。

そうすると、人間はかえって、

自分の中に失われざるものがあることに

気がつくことができる。

 

若松先生は、尊徳の姿を真似する必要はないと言われる。

 

でも、私たちにもやはり、

何かを失わなければならない

切迫した状況が起こるときはある。

 

そこで何かを手放したとき、

自分の中にあって、

本当に失われることのないものにも出会うと書かれている。

 

そしてこう言われる。

「失った」を「奪われた」と捉えるのではなく、

今まで見えていなかった

大切なものを見出さなくてはならないときの到来である、

と考えることもできるように思います。

 

私の中では、

二宮尊徳さんのこの姿が、

お釈迦様の真理にしたがう姿と重なった。

 

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